わざわざブログ書くわけ
アクセスをやってみた⇒⇒⇒⇒やめた
全て私の勝手、選択で決めたことだから、わざわざ公開する形でブログ書かなくてもいいのかも。とも思った。
けど、違和感を突き詰めていったとき、ふと疑問に。
『教義』を真っ当に受け入れ実践した場合…
「アクセスで人生崩壊してる人いない?」と。
海外サイト(フォーラム)を覗いたら
・離婚(快楽主義推奨「その相手と寝たいと思ったら寝ろ」「女は三人の恋人を持つべき」と。)
・借金トラブル(セミナー・クラスを受講するために振れない袖を振らせる)
・精神錯乱での入院
・人間関係崩壊(アクセス関係者以外と話が通じなくなるから)
・「死」。。アクセスを信じ過ぎた故に医療機関の治療を拒み亡くなった方がいるそうです。治療を受けても難しかったかもしれない。。けどアクセスを絶対化させたために「選択肢」が狭められのは確かと思う。
↑それ故、人の入れ替わりは激しい。
見切りをつけてやめる人、続けるのが不可能になる人
その比率はわからないけど、数年いた人の書き込みでは
「(お金を)吸いつくされ、あとはポイ!」
こういった情報を読んだとき、情報発信の必要性を少なからず感じたから。
それをどう受け止めるか、
参考にするか、ただのアンチと捉えるか、頭の片隅に入れてとりあえずやってみるか、
は読み手に任せるけど
とりあえず私としては
「桃源郷があると聞いて向かってみたよ!入口も花園できれいなの!みんなフワキラして楽しそうだしね!でもどんどん進むとね、崖だよ。限られた人が進めるつり橋があるから、そっちまで行けた人の姿を追いかけて『私も』って思うけど、大半の人が諦めるか落ちるみたい。崖に気づかない人もいるしね。つり橋渡っててもね、あっちにとって利益がないって判断されたら、切られるみたいよ!」
というのを、引き返す途中ですれ違う人に
「あ、一応言っとくけど、このまま行くと崖あるよ~」
と一言伝える感じ、かな。
崖があるから落ちちゃうからやめな!とも思わない。
その人が落ちるかどうかは絶対ではないから。
私と同じで自分の目で見定めるまでは納得しないタイプだと、「やめろ」なんて言われたらムキになるかもしれないもんね。
車でも最近はみないけど、
複数の対向車(特にトラック)が普通に流れている昼間にパッシングをする
⇒「そっちの向こう側でネズミ捕りやってるから気ぃつけや」
そんな感じ。
私おせっかいだから。
誰かの不利益になる可能性が高いことを知ってて知らんぷりできないの。
誰かが座ろうとしてるベンチに鳥の糞が落ちてたら、とりあえず教えるよね。
それでも構わん!て座るならお好きにどーぞ♡(^^)
それだけ。